【1555年(天文24年)3月】
ほぼ史実どおりのタイミングで宮川房長が病没。
主君・陶隆房の謀反により大内義隆が滅亡した大寧寺の変の後、天文23年(1554年)に毛利氏が陶氏に叛旗を翻すと、3000余(7000説もある)の兵を率いて安芸国西部で桜尾城近くの折敷畑山に陣を敷き、毛利氏の動向を見定めようとした。しかし機先を制した毛利元就の奇襲包囲攻撃によって宮川軍は敗北、房長も逃走途中に自害した(折敷畑の戦い)。【Wikipedia 宮川房長】より
おっ、尼子義久が元服したな。名実ともに尼子家当主として歴史の表舞台に登場。
敵を引きつけておくために、落城寸前まで傍観していた丸子城。小早川軍で陶持長以下の陶軍を蹴散らす。
【1555年(天文24年)4月】
三浦房清と垣竝(益田?)房清を登用。
周防三浦氏の一族。大内氏家中では水軍の将として知られ、大内水軍の中核を担っていた。天文24年(1555年)には仁保島の仁保城に攻撃を仕掛けたが、城将・香川光景によって撃退された。同年の厳島の戦いに際しては水軍を率いていたこともあり、海路からの安芸侵攻と宮島への上陸を主張。本戦では奇襲で潰走した敗軍をまとめ、主君・陶晴賢に逃走を勧めて自身は奮戦したが、吉川氏家臣・二宮俊実によって討ち取られた。【Wikipedia 三浦房清】より
大内水軍の中核を担う水軍の将たるわりには、ゲーム中での水軍統率能力は3で平々凡々。
安芸熊谷一族と江良房栄というありえない組み合わせで、小松地城を攻略。
こんなところに築城して何か意味があるのかな、と疑問を抱いてしまう。
【1555年(天文24年)5月】
北条家包囲網イベント再び。
そりゃそうだよな。臣従含む石高数の上位三家は、こんな具合ですからね。
北条家:54万0914石
武田家:49万5965石
今川家:38万2110石
【1555年(天文24年)6月】
弘中隆兼(武勇6)と山崎興盛(武勇8)を登用。
弘中隆兼は厳島合戦の際、主君・陶晴賢自刃後も100名足らずの一隊を率いて3日間も孤軍奮戦し、最後は吉川軍に囲まれて討死したという勇将。
山崎興盛も、周防須々万沼城主として10ヶ月以上の対毛利籠城戦を戦い、自害し果てた剛の者。
長期戦の最中、興盛の妻が篭城中の夫を慕い、城の周囲の沼を渡り訪ねたという逸話がある。元就は山崎興盛親子を助命しようとしたが、興盛は元就に検使を乞い、断乎として志を曲げなかったので、元就は仕方なく検使として井上就正、児玉就英を遣わし、興盛は隆次と共に城下で3月3日に自害した。元就は興盛父子の首実検をした後、龍文寺に丁重に葬り、法要を営んだ。
さっそく尼子が岩山城に攻め込んできたが、そこは謀神・元就が……
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