【1553年(天文22年)1月】

毎年1月に実行可能な家臣(臣従大名家)への増封・減封。

宍戸隆家が縦横無尽にして獅子奮迅の活躍を見せてくれているので、宍戸家を増封。高八山城を任せよう。元就の次女が嫁いでいるし。

築城年代は定かではないが永正年間(1504年~1521年)頃には上山氏によって築かれていたと云われる。 上山氏は毛利氏と同じく大江広元を祖とする家で、大江広元の二男長井時広の子、泰経が備後国世羅郡上山村を領して上山氏を称した事に始まる。「城郭放浪記 備後・高八山城」より

草津城周辺での戦い。

陶家の杉隆泰は討ち死にしました
陶家の野閒隆實は討ち死にしました

杉隆泰(すぎたかやす)は、毛利の防長経略時に鞍掛山城主として大内側防衛拠点の一つを担ったが、北隣の蓮華山城主・椙杜隆康に続いて、あっさり降伏。ところがこれは偽計だったようで、そのことを椙杜隆康に注進された挙句、隆元・元春・隆景三兄弟の猛攻を受けて討死したという、なんとも哀れというか策におぼれたというか……。史実でもゲームでも大差ない結果になってしまったね。

大差ないといえば、野間隆実(のまたかざね)もそれこそ大差ないな。

毛利方と見られていたのに、防芸引分後の1555年(天文24年)1月、府中出張城の白井房胤と計らって毛利の仁保島城を攻撃し、反旗を翻した。

元就は慌てて保木(矢野)城へ急行して総攻撃を行い、4月11日に隆実を降伏に追い込んだ。元就は後顧の憂いをなくすため、保木城を徹底的に破壊している。この際元就は、一度は助けるといった城兵の多くを城外で虐殺し、野間隆実も殺した。見せしめであろう。「毛利元就 猛悪無道と呼ばれた男」より

【1553年(天文22年)3月】

伊達家の内紛。正直あまり興味はないけど、伊達政宗登場後は注目しておこうかな。まだまだ先の話だけど。

ついに草津城落城。

その結果、大内義長をはじめとする旧大内重臣が袋のネズミになった。

ご覧のとおり、彼らの可動範囲は矢野城と鳥籠山(とこのやま)城だけ。両方の城に同時に攻め込んで籠城させてしまえば、兵糧攻めでわりと簡単に片付けられるではないか。よし、それでいこう。

それにしても陶家の当主が大内義長というのは……どうしても腑に落ちない。

【1553年(天文22年)4月】

2000余りの兵力で矢野城を包囲。方針どおりの兵糧攻め。

備蓄兵糧を1245減らせた。ゲームの仕様では、基本的に兵1につき兵糧1単位を消費するみたいなので、このペースでいくと4ヶ月かかる見込み。

ちなみに史実では、兵1000人で1日あたり5石の米を消費する計算のようだ。

さて同時に鳥籠山城攻め。効率よくないけど地道に強襲。

石見では三子山城攻め。こっちも強襲。

【1553年(天文22年)5月】

伊勢長島の一向一揆は、史実では1570年以降に本格化することになるが、ここではすでに先鋭化。ちなみに両家の状況は、こんな具合です。

【1553年(天文22年)6月】

元就の晩年から関ヶ原までの毛利の歴史は、この男を抜きにしては語れまい。安国寺恵瓊、登場。

天文10年(1541年)、毛利元就の攻撃で安芸武田氏が滅亡すると、家臣に連れられて脱出し、安芸の安国寺(不動院)に入って出家した。その後、京都の東福寺に入り、竺雲恵心の弟子となる。恵心は毛利隆元と親交があったため、これがきっかけとなり毛利氏と関係を持つこととなった。

天正元年(1573年)12月12日付児玉三右衛門・山県越前守・井上春忠宛書状で、「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」と書いており、織田信長の転落と、その家臣の羽柴秀吉の躍進を予想し、結果的にそれが的中したことで恵瓊の慧眼を示す逸話としてよく引き合いに出される。「Wikipedia 安国寺恵瓊」より

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