【1552年(天文21年)8月】

案の定というか予想どおりというか……陶の軍勢が重富城にちょっかいを出してきた。

宍道隆慶…もとは尼子詮久に仕えていたが、第一次月山富田城合戦の際に大内側に寝返ったらしい。「大寧寺の変」後は陶晴賢に、毛利軍の防長経略後は毛利氏に従った。

加来統直…大友家臣のようだけど、1588年の「大畑城の戦い」で黒田孝高勢の攻撃を受けて討死した。そんな人がどういう経緯で陶の配下になったのかは不明。

重富城の城番は口羽通良。奮闘してくれてはいるが、兵糧が乏しくなってきた。来月には吉川元春以下の救援部隊を差し向けるとしよう。

【1552年(天文21年)9月】

陶勢に包囲されている重富城に吉川元春と口羽春良(通良の嫡男)を派遣。期待にたがわぬ活躍で、あっさり敵を撃退。

逆に毛利方が包囲している金山城はこんな具合。

【1552年(天文21年)10月】

陶軍、メンバーを代えて重富城に再度現る。なかなかしつこいな。

ちなみに陶隆弘は、同じ陶でも「大寧寺の変」で大内義隆側について死んだんだけどね。

一方で、金山城はいただきました。

【1552年(天文21年)11月】

山陽における最西端の対陶防衛拠点となる草津城。いよいよ攻略を始める。

戦国時代には、当初、厳島神社神主家(藤原氏)配下の神領衆・羽仁氏が居城したが、その後安芸守護家たる武田氏、ついで大内氏・陶氏の勢力圏に入った。1554年(天文23年)、毛利氏は無血で城番の羽仁有繁を追い落としこの城を支配下に収めた(防芸引分)。

毛利氏は水軍の将である重臣・児玉氏を草津城代に配置、児玉就方、児玉就英と続く。児玉氏支配下で城の南に位置する草津湊は広島湾を警護する毛利水軍の基地となり、草津の町も大いに繁栄した。

しかし関ヶ原の戦いによる毛利氏の防長移封後、福島正則が広島城主となると、正則は草津城下の山陽道に大門をつくり、広島の西の関所とし、草津城を壊したとされている。「Wikipedia 草津城」

【1552年(天文21年)12月】

草津城への攻撃続行。

陶家の山崎隆方は討ち死にしました
陶家の宇野正常は討ち死にしました

この2人の武将、ググっても出てこん。