【1552年(天文21年)1月】

志川瀧山城の攻略に成功。

志川滝山城は戦国時代に備後国で一大勢力を誇っていた国人「宮氏」によって築かれたといわれ、神辺平野の北部、芦田川水系四川の水源地に近い急峻な山中に位置している。「Wikipedia 志川滝山城」

宮氏の現当主は宮景盛。山内氏に奪われた大富山城を奪還すべく奮闘中の模様。

【1552年(天文21年)2月】

さて、次の一手をどうするか……などと言いながらも、領土拡張のためには陶の城を奪うしかない状況なんだよな。せっかく不戦協定を結んだ芸備の国人衆を今さら敵に回したくないし。陶が尼子・吉見・阿曽沼らと抗争を続けている今が好機かもしれない。

隆元「晴賢は御屋形(大内義隆)を殺した報いを受ける。当家と晴賢の提携はいずれ決裂する運命にある。そこで躊躇するくらいなら、晴賢が攻勢に出た後よりも、こちらが有利な今こそ断交すべきである。今なら芸・備・石の力を結集できる」(毛利元就「猛悪無道」よ呼ばれた男)

毛利隆元が陶晴賢との対決を強硬に主張するわけは、隆元の正室・尾崎局が旧大内家臣・内藤興盛の三女であり、大内義隆の養女になる形で隆元に嫁いだという経緯があるためで、「大寧寺の変」以来、彼は内心忸怩たる思いを抱えてきたのであろう。

対陶の戦略を考えよう。

まず山陰だが、従来どおり温湯城-重富城のラインで陶軍および尼子軍の侵入を防いでおく。

その間に山陽では、草津城-有崎城-丸子城のラインまで一気に進出しておきたい。そうすれば、陶軍が西からどのようなルートで侵攻してこようが、これら3拠点が関門になる。各城の防備を万全に固めた上で、有崎城にそれなりの数の武将・兵員と軍船を配備しておけば、草津城・丸子城とは水路で連携可能、簡単に破られることはあるまい。

次に、今度は山陰で攻勢に出る。三子山城を奪ってここで西からの陶軍の侵攻を食い止め、余剰兵力を東に向けて、山吹城=石見銀山と岩山城を攻略する。これで東からの尼子の侵攻も防ぐことができる。

そうしておいて、再度、安芸南西部に兵力を集め、いよいよ防長経略に進む……と、なんだか絵に描いたような美しいプランではないか。

おーし、そうと決まったら、さっそく防芸引分を実行しよう。

陶晴賢の憤怒の表情が目に見えるようだ。

【1552年(天文21年)3月】

小早川隆景と熊谷信直の部隊で、丸屋城攻撃開始。

【1552年(天文21年)4月】

時間差で有崎城攻め。

こちらは児玉就方隊と杉原盛重(武勇7)隊。

備後国の国人・山名理興の家老で大内氏と争った神辺合戦で活躍した。大内氏の勢力を継承した毛利氏の傘下となった理興が、弘治3年(1557年)に継嗣のないまま死去すると、盛重はその勇猛ぶりが毛利氏重臣である吉川元春に評価され、理興の跡を継いで備後国神辺城主となった。「Wikipedia 杉原盛重」