【1551年(天文20年)10月】

足利義輝、史実より5年遅れで将軍の座に。

宣教師ルイス・フロイスは、義輝を「とても武勇すぐれて、勇気ある人だった」と評している。剣豪として名を馳せていた塚原卜伝から指導を受けた直弟子の一人である。奥義「一之太刀」を伝授されたという説もあり、武術に優れた人物であったのではないかと言われている。

永禄の変の際、フロイスの『日本史』では「義輝は自ら薙刀を振るって戦い、人々はその技量の見事さにとても驚いた。その後はより敵に接近するために薙刀を投げ捨て、刀を抜いて戦った。その奮戦ぶりはさながら勝利を目前にしている者にも劣らなかった」と記されている(『フロイス日本史』第65章)。信長旧臣の太田牛一が著した『信長公記』でも「数度きつて出で、伐し崩し、数多に手負わせ、公方様御働き候」と記されている。(Wikipedia 足利義輝)

「永禄の変」は、1565年(永禄8年)6月17日、足利義輝が三好義継、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久通らの軍勢によって京都二条御所で襲撃・殺害された事件。将軍弑逆です。

琉球那覇にも交易船を派遣できるようになった。

【1551年(天文20年)11月】

旗返城攻略。史実では1553年(天文22年)10月19日。元就は陶晴賢に「旗返城の管理を任せてほしい」と願い出たが、晴賢はこれを拒否。配下の江良房栄を城番に送り込んできた。さすがに、毛利がこれ以上勢力を拡大するのを認めるわけにはいかなかったのでしょうな。『森脇覚書』や『老翁物語』は、この一件が「防芸引分」の遠因になったと記しているそうです。

元就「晴賢の奴、史実どおり江良房栄を城番に送り込んでくるかの?」
隆元「かような不埒な振る舞いに及ぼうものなら、即時断交の上、防長経略に着手するがよろしいかと。御屋形(大内義隆)の仇討ちにはお誂え向きでしょう」
隆景「聞くところによれば、沖家(村上水軍)の村上武吉も晴賢にはたいそう立腹とか……」
元春「ほう、それはどういう?」
隆景「今まで認められていた厳島の駄別料徴収を晴賢に禁じられたらしいのです。村上にとっては大きな権益を奪われることになりますからな」
隆元「なるほど、晴賢め、どうやら厳島の海上権益を独占する肚のようですな」

さて、ともかく当主・江田隆連をはじめとする江田家諸将を高杉城に追い詰めた。兵糧攻めの場合、単純計算では5ヶ月で落ちるな。よし、これでいこう。

【1551年(天文20年)12月】

高杉城総攻撃に移ろうとした矢先、切羽詰まった江田隆連が……

う~ん、ここは承諾ておこう。

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