【1551年(天文20年)8月】

銀山城を落としてホッとしたのもつかの間、予定どおりというか「大寧寺の変」勃発。

さて、どのような結果になったのか、マップを眺めてみる。

★安芸

★備後

★石見

旧大内領がすべて陶家の領土になり、大内に従属・臣従していた大名は独立した模様。で、毛利とそれらの勢力との関係は「無関係」つまり「敵対」状態になってしまったようだ。おいおい、史実では毛利は陶の叛逆に加担してさしあげたんですが……。

かくなる上は、やりたいようにやらせてもらう。

安芸・備後の国人連中が独立勢力になったので、これらと不戦同盟を締結する。まずは平賀家・世能阿曽沼家・堀財崎天野家・生城山天野家・因島村上家。一大名あたり300~800貫の費用を要したが、すべて同盟締結に成功。毛利の版図拡大に伴って、従属・臣従してくれることを期待する。

で、肝心の陶はどうするか……悩ましいところだが、もし陶に不戦同盟締結の意図があったとしても、こちらから話を切り出したら多額のカネを要求されることは間違いないよな。それに近い将来、どのみち防芸引分(周防の陶と安芸の毛利が袂を分かつこと)が起きると思われるし、とりあえず放置しておいて向こうの出方をうかがってみるか。いきなり殴り込んでくるような暴挙に出ることはあるまい。

……なんてのんびり構えていたら、あろうことか陶の軍勢が温湯城に攻め込んできやがった。

総兵力では劣るものの、吉川元春を総大将とする守備部隊が奇襲で撃退。

元春「(隆房改め)晴賢め、随分と阿漕な真似をしてくれるではないか」
元就「結局のところ、主家簒奪を成し遂げた晴賢の次の狙いは、毛利なのではなかろうか。お屋形(大内義隆)を屠って返す刀で当家に一撃浴びせ、強大化を未然に防いでおこうという魂胆であろう」
隆景「お屋形がご健在であれば、当家と事を構えるなどお許しになるはずがなかったであろうにな」
隆元「謀叛の理由の一つもそこだったのではあるまいか。お屋形や相良武任ら文治派に対する反感・嫌悪も手伝っているのだろうが……」

【1551年(天文20年)9月】

「大寧寺の変=大内家崩壊」を契機に中国地方がカオスと化している。

陶家と安藝毛利家は不戦同盟を結びました
山内家と三吉家は不戦同盟を結びました
三吉家は江田家との不戦同盟を破棄しました
堀財崎天野家は生城山天野家との不戦同盟を破棄しました
因嶋村上家は能嶋村上家との不戦同盟を破棄しました
和智家と木梨椙原家は不戦同盟を結びました

大富山城周辺で城包囲軍(久代宮家)と城救援軍(山内家)が野戦 → 城救援軍は撤退しました
高森城周辺で城包囲軍(椙杜家)と城救援軍(陶家)が野戦 → 城包囲軍は撤退しました
賀年城周辺で城包囲軍(陶家)と城救援軍(石見吉見家)が野戦 → 城救援軍は撤退しました
内郡城周辺で城包囲軍(豐前杉家)と城救援軍(陶家)が野戦 → 城包囲軍は撤退しました
神西城(出雲尼子家)は陶家に攻められています
山吹城周囲で城防御軍(出雲尼子家)と城攻略軍(陶家)が野戦 → 城攻略軍の勝利
山吹城(出雲尼子家)は陶家に攻められています
八幡城周囲で城防御軍(佐波家)と城攻略軍(陶家)が野戦 → 城攻略軍は退却しました
大富山城(山内家)は久代宮家に攻められています
旗返城周囲で城防御軍(江田家)と城攻略軍(安藝毛利家)が野戦 → 城攻略軍の勝利
旗返城(江田家)は安藝毛利家に攻められています
志川瀧山城周囲で城防御軍(出雲尼子家)と城攻略軍(安藝毛利家)が野戦 → 城攻略軍の勝利
志川瀧山城(出雲尼子家)は安藝毛利家に攻められています
槌山城周囲で城防御軍(陶家)と城攻略軍(世能阿曾沼家)が野戦 → 城攻略軍の勝利
槌山城(陶家)は世能阿曾沼家に攻められています
鳥籠山城(世能阿曾沼家)は陶家に攻められています
赤城山城(世能阿曾沼家)は生城山天野家に攻められています
賀年城(石見吉見家)は陶家に攻められています

はい。この混乱に乗じて、江田家の旗返城と尼子家の志川瀧山城に攻め込みました。

石見での陶軍の動きは気になるが、獲れるものは獲れるときに獲っとかないと。

へ? 先月の温湯城への殴り込みは何だったんだ? 単なる威力偵察かよ。まあいい。ここで下手に突っ張って、まだ優勢な敵と全面戦争に突入するのは得策とは言えんからな。陶と本格的にやり合う前に、できれば芸備の国人衆を従属・臣従させておきたい。

……つーことで、陶家と不戦同盟締結。

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