【1551年(天文20年)3月】

蝦夷松前に交易船を送れるようになった。月あたりの利益額が大きいので、ありがたい。

農耕民族の和人と狩猟採集民族のアイヌは、それぞれの生活様式によって確保した生産物を交易で交換した。アイヌは魚や毛皮を輸出品目とし、和人の生産する道具(鉄器や漆器)や嗜好品(米、茶、酒)と交換した。Wikipedia「アイヌの歴史」

今、気がついた。旧沼田小早川家の田坂義詮(全景)って生きてるじゃん。史実では、隆景の家督相続に強硬に反対していたために消されてしまったはずなんだが。

大内勢が小松地城に攻め込んだ。ちょっと調子に乗り過ぎだわ。

負けてはおられん……というわけじゃないけど、とりあえず手頃な攻略先がここ以外にないのて、備後の銀山城を攻める。城主は杉原理興(ただおき)。

理興は武勇に優れた武将でとして描かれ、隆宗との戦いに関する逸話も記述されている。同年7月に平賀隆宗は陣中で病没するが、主君を失った平賀勢が神辺城めを継続。9月4日に、理興は尼子氏を頼って月山富田城に逃亡し、神辺城は開城した。なお、理興が神辺城を去った理由について、陰徳太平記では理興が平賀隆宗が神辺城を賭けて互いが的となり弓を引き合う一騎討ちを行ない、負けた理興が約束通り城を明け渡したと記されている。

その後、天文23年(1554年)の防芸引分)で大内氏・陶氏から毛利氏が独立すると、備後の勢力基盤を継承した毛利元就に恭順を許され再び神辺の安堵を認められた。

神辺城帰城から2年後の弘治3年(1557年)に死去。嫡男・直良は死去していたため、神辺城主は家老の杉原盛重に受け継がれた。「Wikipeida 杉原理興」

例によって、つり出し作戦 → 夜戦で勝利。杉原家の杉原春良が討死。

続く強襲で敵の守備兵力を削る。

【1551年(天文20年)4月】

引き続き銀山城で野戦&強襲。

杉原家の杉原直盛・藤井好元・入江正高が討死。この戦い、杉原家の討死率がえらく高いな。

【1551年(天文20年)5月】

尼子誠久が登用可能になった。確か主家が滅亡すると、頑なだった当人の心が折れて登用に傾くという仕様だったと思うが、新宮尼子家は滅亡しちゃいない。どういう心境の変化だろうか。

本明城も小松地城も大内に獲られた。

文治志向の大内義隆に似合わず、えらく侵略主義的だな。武断派の陶隆房が先頭で旗振っているのかとも思ったけど、彼は地元の周防・右田岳城に在城している。ちなみに、滅亡した小笠原家の小笠原長雄・小笠原長旌・寺本玄蕃の3人は大内に登用された。

【1551年(天文20年)7月】

ようやく銀山城落城。

杉原家の杉原興勝が切腹。武勇6なので、できれば登用したかったが、武勇7の杉原盛重を捕虜にできたのは大きい。

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中近世の蝦夷地と北方交易: アイヌ文化と内国化
関根 達人
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