【1548年(天文17年)11月】

少しずつ軍備も充実させていくか。

[武勇]が高く[野戦統率]が低い武将に優先的に兵を集める。[武勇]も[野戦統率]も高い武将は、本陣で総大将として全軍を率いてもらうため、あまり多くの兵を与える必要はない。万一の敵の奇襲に耐えられる兵力があれば。

基本的に兵力は先陣に集中させ、先制の一撃で敵の士気を一気に下げる戦法をとっている。先陣・第二陣に兵力を分散させる意味はないよな。

【1548年(天文17年)12月】

守護代・長尾晴景の政治は不安定で、1542年の父・為景の葬儀には、上杉謙信さえ甲冑をつけて参列しなければならなかった。

古志郡および隣接する蒲原郡の国人たちに支持された謙信は、やがて春日山城のある頸城郡に拠る兄・長尾晴景と対立するようになり、次第に晴景方を圧迫していった。国政の混乱を憂えた老守護・上杉定実は両者の調停に乗り出し、謙信が晴景の養子になるというかたちをとって、守護代・長尾家の当主に迎えられたのである。「クロニック戦国全史」より

交易船を肥前平戸に派遣。

肥前平戸は、鎖国前は中国・ポルトガル・オランダなどとの国際貿易港として繁栄した。2年後の1550年(天文19年)には領主・松浦隆信が南蛮貿易に進出して平戸港にポルトガルの貿易船が初めて入港。同年9月にはフランシスコ・ザビエルが平戸に来航し、キリスト教(カトリック)の布教を始めることになる。

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