1552年(天文21年)9月、旗返(旗返山=はたがえしやま)城を攻略。

捕虜になった城主の江田隆連。こっちについたりあっちになびいたり腰の座らん武将だけど、一応登用。

史実だと、大内家の実権を握った陶隆房に対して、毛利元就は旗返山城の所有を認めるように懇願したが、隆房は毛利の勢力がそれ以上拡大するのを警戒して、自らの腹心・江良房栄を城番とした。このことが「防芸引分」(=陶と毛利が袂を分かつ)の遠因になったとも言われている。

でも、ここでは陶隆房は横槍を入れてこないようなので、堂々と自領に組み込む。

尼子が執念深く琵琶甲城を攻めてくる。晴久よ、早いとこ新宮党一味を誅殺してくれ。

航海技術200で、ようやく赤間関まで交易船を送れるようになった。

1553年(天文22年)9月、志川滝山(しかわたきやま)城を攻略。

宮光音(みやみつなり)を捕虜に。

12月、尼子新宮党、待望の誅殺。

『吉田物語』や『陰徳太平記』では、この粛清劇の黒幕は毛利元就だとされている。

「(尼子)晴久との関係悪化を知った毛利元就は、自国の罪人(または巡礼)に偽の手紙を持たせ、月山富田城(または富田川上流)の門前でその罪人を殺した。翌日、その惨殺死体は尼子方に発見された。死体が持っていた手紙には、(尼子)国久に晴久を暗殺するように仕向ける内容が書いてあり、これを読んだ晴久は、国久が毛利と裏でつながっていたと勘違いし、それによって粛清されたと伝わった」Wikipedia「尼子国久」より

近年の研究では、尼子晴久が家中統一を目的として、彼自身の判断で粛清を行ったという説が強まっているそうだ。