1550年(天文19年)6月
尼子軍に包囲されていた本明城に大内の援軍が到着。当主・大内義隆自らが率いる約1万5千の大軍で、エースはもちろん陶隆房。尼子軍を蹴散らして、堂々の入城です。
1550年(天文19年)7月
井上衆粛清の1週間後に元就宛に提出された、福原貞俊以下の毛利家家臣238名による連署起請文をもって、元就の支配権が確立されたと見てとれる。
石見侵攻を大内に阻まれたせいか、尼子が南に矛先を向けてきやがった。
備後の国人・三吉氏の居城である比叡尾(比叡尾山)城が、亀井秀綱・米原綱寛ら2700の軍勢に包囲された。
城を枕に討ち死に……などという前時代的な非合理的な発想は持ち合わせていないので、三吉致高・隆亮父子は早々に脱出。城には750の守備兵が残った。
敵軍の規模は大したことないし兵糧も備蓄しているので、兵糧攻めでも強攻策でも2~3ヶ月は耐えられるだろう。その間に兵をかき集めるべし。
1550年(天文19年)9月
豊作だった。よしよし。
収穫が終わって[新田開墾]が可能に。
そろそろ、比叡尾城を救援するか。
隣接する五龍城に兵力のほとんどを集結させ、そこから6千余りの兵を出陣させる。総大将は毛利元就以下、吉川元春・小早川隆景・熊谷信直という少数精鋭の陣容。敵はどうせ2千余りだし……とタカをくくっていたが、尼子晴久以下の後詰が到着していて何と1万2千の大軍になっていた。
「兵数が相手よりも少なく、智謀が高い武将(野戦相手の武将の智謀の最高値+3以上)がいる場合、野戦開始時に奇襲に成功する場合があります。その場合は、野戦開始直後から相手の本陣を攻撃することが可能となり、野戦に勝利できる可能性が非常に高くなります」(戦国史ユーザーズマニュアルより)
敵の[智謀]の最高値は、尼子晴久の4。対するに毛利元就の[智謀]は10! 赤子の手を捻るようなもんだな。
結局……